涙の玉ねぎが生む、エチオピアの赤い宝石
エチオピアの台所で最も大切にされる料理があります。クリスマス(ゲンナ)、結婚式、出産祝い。人生の節目にはいつも、この深紅のシチューが食卓の中央に据えられます。
ドロワット(Doro Wot / ドロ ወጥ) はエチオピア料理を代表する国民的チキンシチューです。「ドロ」は鶏、「ワット(ウォット)」はシチューを意味します。英語圏のフードジャーナリストが「世界で最も過小評価されたシチュー」と呼ぶこの料理は、見た目の鮮やかな赤色とは裏腹に、辛さよりもスパイスの複雑な香りが際立つ、奥深い味わいをもちます。
ドロワットの赤はベルベレ(berbere)というエチオピア固有のスパイスミックスに由来します。韓国のコチュジャン、インドのガラムマサラに匹敵する「国を代表する調味料」で、家庭ごとに独自の配合が受け継がれます。
米国のフードライターJessica B. Harrisは著書 High on the Hog: A Culinary Journey from Africa to America(2011年)で、「ドロワットは単なる料理ではない。エチオピアの家族の歴史が、一鍋に凝縮されている」と書いています。エチオピアの家庭では、新婦がドロワットを上手に作れるかどうかが、料理の腕前を測る基準になるほど重要な料理です。
この記事では、日本のスーパーで揃う食材を使い、ベルベレの自家製配合から丁寧に解説します。合わせて食べるインジェラ(エチオピアの発酵パン)のレシピもぜひご覧ください。

調理のコツ
15分程度で妥協すると、ドロワットの味は半分以下になります。玉ねぎのカラメル化(メイラード反応)で生まれるグルタミン酸が、ベルベレの辛味と合わさってドロワット特有の複雑な旨味を作ります。「泣き終わるまで待て」がエチオピアの金言です。
市販のベルベレ(カルディ等で入手可能)も使えますが、ホールスパイスをフライパンで乾煎りしてから砕いた「フレッシュベルベレ」は香りの次元が異なります。乾煎りは中火で2〜3分、スパイスの香りが立ったらすぐに火から下ろしてください。スパイスグラインダーやすり鉢で粉にします。
骨付きもも肉は、45分の煮込みで骨から旨味がソースに溶け出し、コラーゲンがソースにとろみを加えます。骨なし肉で作ると調理時間は短くなりますが(30分程度で十分)、ソースの深みが弱くなります。中東料理のケバブでも骨付き肉が重視されるのと同じ理由です。
スパイスシチュー全般に言えることですが、ドロワットは作った翌日が最も美味しくなります。一晩冷蔵庫で寝かせると、ベルベレの風味が鶏肉と卵に深く浸透します。温め直すときは弱火で、蓋をして10分。水大さじ2を加えると焦げ付きを防げます。
アレンジ・バリエーション

イェベグ・ワット(ラムバージョン)
鶏肉の代わりに骨付きラム肉800gを使います。煮込み時間は60分に延長。ラムの濃厚な脂とベルベレの辛味が絶妙に合います。卵はそのまま使用します。エチオピアの祝祭日(ティムカット)には羊のワットがよく作られます。
イェミスル・ワット(赤レンズ豆バージョン・ヴィーガン)
鶏肉と卵を省き、乾燥赤レンズ豆200gを使います。レンズ豆は洗って水300mlと一緒にソースに加え、蓋をして30分煮込みます。バターの代わりにオリーブオイルを使えば完全なヴィーガン料理になります。エチオピア正教会の断食日(年間200日以上)にはこのバージョンが食卓に並びます。
辛さ控えめバージョン
カイエンペッパーを完全に省き、パプリカパウダーを大さじ4に増やします。辛さはほぼゼロになりますが、パプリカの甘い風味とその他のスパイスのハーモニーで十分に美味しいドロワットになります。子供や辛いものが苦手な方向けです。
日本食材アレンジ
ニテルキベの代わりに、バター60gにすりおろし柚子の皮小さじ1を加えると、和のニュアンスが加わった面白いドロワットになります。また、ベルベレの代替として七味唐辛子大さじ2+パプリカ大さじ2で作ると「和風ドロワット」として新鮮な味わいになります。ガパオライスのようにごはんに合わせるのもおすすめです。
この料理の背景 — エチオピアの「魂の料理」

祝祭の料理
エチオピアでドロワットは特別な意味をもちます。ゲンナ(エチオピアのクリスマス、1月7日)、ティムカット(公現祭、1月19日)、結婚式、新生児の命名式。人生の重要な節目には、必ずドロワットが作られます。
これは単にごちそうだからではありません。鶏1羽を丸ごと使い切るドロワットは、エチオピアの農村部では「家畜を犠牲にする」行為であり、それ自体が祝福と感謝の表現です。鶏は12の部位に分けられ、家族の長から順に配分されます。この「12の部位」はキリストの12使徒を象徴するとも言われ、食事に宗教的な意味が重ねられています。
ベルベレの歴史
ベルベレの起源ははっきりとは分かっていませんが、エチオピアの歴史学者Richard Pankhurst(ロンドン大学)は、唐辛子が16世紀にポルトガル商人によってエチオピアにもたらされる以前から、ベルベレの原型となるスパイスブレンドが存在したと論じています。
唐辛子が加わる前のベルベレは、長胡椒(ティミズ)、ジンジャー、ニゲラシード、フェヌグリークを中心としたブレンドでした。唐辛子の導入で赤い色と辛味が加わり、現在の「ベルベレ」の形になったとされます。
ベルベレの名前はアムハラ語で「熱い」を意味します。各家庭が独自の配合を持ち、母から娘へと口伝えで受け継がれます。エチオピアの女性にとって「良いベルベレを作れること」は、料理の腕前の象徴です。
世界に広がるドロワット
1970年代のエチオピア革命(デルグ政権)以降、多くのエチオピア人が米国、カナダ、ヨーロッパに移住しました。彼らがもたらしたエチオピア料理は、特にワシントンD.C.(世界最大のエチオピア人コミュニティがある)で花開きました。
2024年現在、ワシントンD.C.のアダムズ・モーガン地区とUストリート周辺には30軒以上のエチオピアンレストランが並び、「リトル・エチオピア」と呼ばれています。ニューヨーク・タイムズは2023年に「エチオピア料理は今、アメリカで最もエキサイティングな外国料理」と評しました。
日本でもエチオピア料理店は増え始めていますが、まだ東京に数軒程度。自宅で再現することの価値は、世界ごはん紀行の読者なら分かっていただけるでしょう。中東料理に続く「次の食トレンド」として、アフリカ料理が注目されています。
よくある質問

ベルベレスパイスを揃えるのが大変です。市販品はありますか?
カルディや成城石井で「ベルベレ」として販売されている場合があります。また、Amazonで「Ethiopian Berbere Spice」と検索すると輸入品が見つかります。市販品は手軽ですが、ホールスパイスを乾煎りして自分で挽いたフレッシュベルベレの方が圧倒的に香りが豊かです。
鶏胸肉でも作れますか?
作れますが、もも肉に比べてパサつきやすいです。胸肉を使う場合は煮込み時間を30分に短縮し、火を止めてから10分余熱で火を通すと、しっとり仕上がります。エチオピアの伝統ではもも肉とドラムスティック(骨付き)が使われます。
インジェラ以外に何と合わせればいいですか?
白ごはんが最もシンプルで相性が良いです。ナンやチャパティ、バインミーに使うフランスパンでソースをすくって食べるのもおすすめです。クスクスとの相性も抜群で、同じアフリカ大陸のモロッコのタジンとの食文化的なつながりを感じられます。
何日くらい保存できますか?
冷蔵保存で4〜5日、冷凍で1か月保存できます。冷凍する場合は鶏肉と卵を別々に保存すると、解凍時に卵がゴム状になるのを防げます。温め直すときは弱火で10分、水大さじ2を加えてソースが焦げ付かないようにしてください。
辛さはどのくらいですか?
このレシピのベルベレ(カイエンペッパー小さじ1)は「中辛」程度です。韓国のキムチチゲと同程度の辛さです。カイエンペッパーを小さじ2にすると本場の辛さ、完全に省くと辛さゼロの「マイルドドロワット」になります。辛味に敏感な方は、ヨーグルトを添えると辛さが和らぎます。
参考文献
エチオピア料理の日本語文献は極めて限られるため、以下の英語圏の書籍・記事を一次情報として参照しています。
書籍:
- Gebreyesus, Yohanis. Ethiopia: Recipes and Traditions from the Horn of Africa. Interlink Books, 2019年 (https://www.interlinkbooks.com/product_info.php?products_id=2569) 2026年参照. エチオピア人シェフによる本格的なレシピ集。ドロワットの伝統技法について詳述。
- Harris, Jessica B. High on the Hog: A Culinary Journey from Africa to America. Bloomsbury, 2011年 (https://www.bloomsbury.com/us/high-on-the-hog-9781596913950/) 2026年参照. アフリカからアメリカへの食文化の旅。ドロワットの文化的位置づけについて。
- Mesfin, Daniel J. Exotic Ethiopian Cooking. Ethiopian Cookbook Enterprises, 2006年 (https://www.amazon.com/dp/0961058129) 2026年参照. エチオピア料理の基礎レシピと文化背景の解説。
記事・論文:
- Pankhurst, Richard. "The history of Ethiopian food." Journal of Ethiopian Studies, Vol. 5, 1967年. ベルベレの起源と唐辛子導入以前のスパイス文化について。












