スペインが運び、南米が育てた「包む文化」
サッカー観戦のお供に、日曜の家族の食卓に、バス停でかじる朝食に。アルゼンチンで エンパナーダ(empanada) が食べられない場所を探す方が難しいほど、この半月形のパイは国民の生活に溶け込んでいます。
「エンパナーダ」の語源はスペイン語の「empanar(パンで包む)」です。16世紀、スペインの征服者たちが南米に持ち込んだミートパイが原型とされています。英語圏の食文化研究者ダニエル・イグルシアスは著書『The South American Table』で、「スペイン人がレコンキスタ時代にムーア人から学んだ『包んで焼く』技法が、大西洋を渡ってアルゼンチンの風土と食材に出会い、まったく新しい料理として花開いた」と記しています。
アルゼンチンには州ごとに異なるエンパナーダのスタイルがあります。サルタ州の揚げエンパナーダ、トゥクマン州の鶏肉エンパナーダ、メンドーサ州のオリーブたっぷりの牛肉エンパナーダなど、英語圏の旅行メディアLonely Planetによると少なくとも14の地方スタイルが確認されています。
アルゼンチンでは毎年4月8日が「ナショナル・エンパナーダ・デー(Día Nacional de la Empanada)」として祝われています。この日はベーカリーやレストランが特別なエンパナーダを販売し、家庭でも大量のエンパナーダを焼いて家族で食べるのが伝統です。
この記事では、英語圏のアルゼンチン料理サイトやブエノスアイレスのシェフたちのレシピを研究し、日本のスーパーの食材だけで再現できるエンパナーダのレシピをお届けします。セビーチェ、フェイジョアーダと並べれば南米の食卓が完成です。南米料理まとめもあわせてご覧ください。

調理のコツ
エンパナーダの生地がサクサクに仕上がるかどうかは、バターの温度にかかっています。バターが溶けてしまうとグルテンと一体化し、サクサクではなくもっちりした食感になります。バターは使う直前まで冷蔵庫に入れ、1cm角に切ったら手早く粉に擦り込んでください。夏場は粉ごと冷蔵庫で冷やしておくと失敗しにくくなります。
オーブン焼きが主流のブエノスアイレスに対し、アルゼンチン北部(サルタ、トゥクマン)では揚げエンパナーダが伝統的です。170℃の油で片面2〜3分ずつ、きつね色になるまで揚げます。揚げた方が生地がパリパリで、フィリングのジューシーさも閉じ込められます。ただしカロリーは1.5倍程度になります。
エンパナーダは包んだ状態で冷凍できます。バットに並べて凍らせ、固まったらジップロックに移して2ヶ月保存可能。焼くときは凍ったまま200℃のオーブンで28〜30分。解凍不要で焼きたての味が楽しめるため、週末に大量に仕込む家庭がアルゼンチンでは一般的です。

生地の科学 — なぜバターを冷たいまま使うのか
エンパナーダの生地がサクサクに仕上がるメカニズムは、パイ生地やクロワッサンと同じ原理に基づいています。
冷たいバターの塊が粉の中に点在した状態で生地を成形すると、オーブンの高温(200℃)でバターが溶けて蒸気を発生させ、その蒸気が生地を押し上げて薄い層を形成します。これが「サクサク」の正体です。バターが溶けた状態で粉と混ざってしまうと、この層構造ができず、硬くてもっちりした生地になります。
酢(小さじ1)を加える理由も科学的に明確です。酸性環境ではグルテンの網目構造の形成が抑制されます。グルテンが発達すると生地に弾力が出て「パン」に近づいてしまうため、パイやエンパナーダでは意図的にグルテンの発達を抑える工程が組み込まれています。
アルゼンチンの伝統的なレシピでは、バターの代わりにラード(豚の脂)や牛脂(grasa de vaca)を使う地域があります。特にサルタ州やトゥクマン州の揚げエンパナーダはラードが主流で、揚げた時のサクサク感と香ばしさはバター版を凌ぎます。日本のスーパーでもラードはパン売り場の近くに置いてあることが多く、1箱(200g)100〜200円で購入できます。バターの半量をラードに置き換えるだけで、本場に一歩近づきます。
アレンジ・バリエーション
チキン(ポジョ)エンパナーダ
鶏むね肉 300gを茹でてほぐし、クリームチーズ 50gとみじん切りの青ねぎを混ぜたフィリング。マイルドでクリーミーな味わいは子供にも大人気。アルゼンチンのパーティーでは牛肉版と鶏肉版を半々で用意するのが定番です。
ハム&チーズ(ハモン・イ・ケソ)
薄切りハム 6枚とモッツァレラチーズ 150gを生地に包むだけ。フィリングの調理が不要な最も簡単なバリエーションです。子供のおやつやお弁当に重宝します。チーズが溶け出さないよう、縁をきっちり閉じてください。
ほうれん草&チーズ(ベルドゥーラ)
ほうれん草 200gを茹でて水気を絞り、みじん切りにしてリコッタチーズ 100g、卵 1個、ナツメグ少々と混ぜたフィリング。ベジタリアン向けのバリエーションで、栄養バランスも優れています。
和風アレンジ
フィリングにカレー粉大さじ1を加えると「カレーパン風エンパナーダ」に。日本のカレーパンとアルゼンチンのエンパナーダは構造的にそっくりで、包んで加熱する発想は世界共通です。じゃがいもを加えてコロッケ風にするアレンジも面白いです。
他にも味噌大さじ1と豚ひき肉で「味噌エンパナーダ」、ツナ缶とマヨネーズで「ツナマヨエンパナーダ」など、日本の食材との相性は抜群です。お弁当のおかずとしてもサイズ感がちょうどよく、冷めても美味しいのが嬉しいポイントです。
デザート版(エンパナーダ・デ・ドゥルセ)
アルゼンチンではデザートとしてのエンパナーダも広く親しまれています。代表格は「エンパナーダ・デ・ドゥルセ・デ・メンブリージョ(マルメロジャムのエンパナーダ)」で、砂糖をまぶした生地にジャムを詰めて揚げたものです。日本では、りんごジャムやカスタードクリームを詰めて焼くアレンジが手軽に楽しめます。生地に砂糖大さじ2を追加し、シナモンをひとふりすれば、おやつにぴったりの甘いエンパナーダの完成です。
保存方法と日持ち
| 状態 | 保存方法 | 日持ち | ポイント |
|---|---|---|---|
| 焼く前(生) | 冷蔵 | 当日中 | 生地が乾燥しないようラップで覆う |
| 焼く前(生) | 冷凍 | 2ヶ月 | バットに並べて凍らせてからジップロックへ。焼くときは凍ったまま200℃で28〜30分 |
| 焼いた後 | 冷蔵 | 3日 | 密閉容器に入れる。再加熱はトースターで5〜8分(レンジ不可) |
| 焼いた後 | 冷凍 | 1ヶ月 | 凍ったまま180℃のオーブンで10〜12分 |
アルゼンチンの家庭では週末に50〜100個のエンパナーダをまとめて作り、冷凍庫にストックする習慣があります。日本でいう「餃子の作り置き」と同じ感覚です。冷凍した生のエンパナーダは解凍なしでそのままオーブンに入れられるため、忙しい平日の夕食やお弁当のおかずに重宝します。
世界の「包む料理」 — エンパナーダの親戚たち
エンパナーダと構造的に似た「生地で具材を包んで加熱する料理」は世界中に存在します。
| 料理名 | 国・地域 | 共通点 | 違い |
|---|---|---|---|
| 餃子 | 中国・日本 | 小麦粉の生地で肉を包む | 蒸す・焼く・茹でる。サイズが小さい |
| カレーパン | 日本 | パン生地で肉を包んで揚げる | イースト発酵生地。カレー風味 |
| サモサ | インド | 三角形のパイに肉やじゃがいも | スパイスが効いている。揚げが主流 |
| パスティ | イギリス | 半月形のミートパイ | 牛肉・じゃがいも・ルタバガが定番 |
| ヒンカリ | ジョージア | 肉入り小籠包風 | スープが中に閉じ込められている |
| ピエロギ | ポーランド | 半月形の詰め物料理 | 茹でてからバターで焼く |
| ブリック | チュニジア | 薄い生地で卵と肉を包む | 春巻きの皮に近いブリック生地 |
食文化研究者のKen Albalaは著書『The World in a Skillet』で「生地で肉を包む料理は人類最古の調理法の一つであり、全ての大陸に独自のバリエーションが存在する」と述べています。エンパナーダはスペイン経由で南米に伝わりましたが、その原型はムーア人(北アフリカのイスラム文化圏)のミートパイにまで遡ります。
食材の入手ガイド — エンパナーダに使う食材を日本で揃える
スパイス
| スパイス | 入手先 | 価格目安 | 備考 |
|---|---|---|---|
| パプリカパウダー(甘口) | スーパーのスパイスコーナー | 15g 200〜300円 | GABAN、S&Bが定番。スペイン産ピメントン・デ・ラ・ベラ(smoked paprika)があれば燻香が加わり格上の仕上がりに |
| クミンパウダー | スーパーのスパイスコーナー | 15g 200〜300円 | エンパナーダの風味の骨格。カレー粉で代用も可能だが、味の方向性が変わる |
| オレガノ(乾燥) | スーパーのハーブコーナー | 5g 150〜250円 | フィリングの仕上げに振ると本場感が増す |
生地の材料
エンパナーダの生地に使う材料は全て日本のスーパーで揃います。薄力粉は日清「フラワー」や日本製粉「ハート」など標準的なもので十分です。バターは有塩・無塩どちらでも構いませんが、フィリングに塩味があるため無塩バターの方が調整しやすくなります。
市販の冷凍パイシートを使う場合は、ニップンの「パイシート」(2枚入り約350円)が扱いやすいです。1枚から直径12cmの丸型を4枚抜けるため、2枚で8個分。残りは自家製生地で補うのが経済的です。
グリーンオリーブの選び方と種抜きのコツ
グリーンオリーブはエンパナーダの味を決定する重要な食材です。日本のスーパーでは瓶詰めの種抜きグリーンオリーブが一般的で、S&B(食品メーカー)やデルモンテのものが広く流通しています。輸入食材店(カルディ、成城石井、ジュピター)ではスペイン産マンサニージャ種の大粒オリーブが手に入り、肉厚で風味が濃いのが特徴です。
「ブラックオリーブではダメか」とよく聞かれますが、ブラックオリーブはグリーンオリーブと風味が全く異なります。グリーンオリーブの爽やかな酸味と苦味がフィリングのアクセントになるため、ここだけは代替不可です。
栄養と健康効果
エンパナーダは「パイ生地+肉」というイメージからカロリーの高い料理と思われがちですが、手作りすることで脂質と塩分をコントロールできます。
| 栄養素 | 4人分のうち1人あたり(約3個) | 働き |
|---|---|---|
| タンパク質 | 約22g | 牛ひき肉とゆで卵のダブルタンパク源 |
| 脂質 | 約26g | バターの飽和脂肪酸とオリーブのオレイン酸。ラードに置き換えると飽和脂肪酸が増える |
| 炭水化物 | 約40g | 薄力粉の生地由来。全粒粉を1/3混ぜると食物繊維が増える |
| ビタミンE | 豊富 | グリーンオリーブに多く含まれる。抗酸化作用 |
| 鉄分 | 含有 | 牛ひき肉のヘム鉄。貧血予防に効果的 |
| ビタミンB群 | 含有 | 牛肉とゆで卵からB12、B6を摂取できる |
揚げる代わりにオーブン焼きにすると、1個あたりのカロリーが約30%減ります。さらにフィリングに赤身率90%以上の牛ひき肉を使い、バターの量を60gに減らせば、1個あたり約120kcalに抑えられます。全粒粉を薄力粉の1/3量混ぜると食物繊維が増え、血糖値の急上昇を抑える効果もあります。
文化と歴史 — アルゼンチンの州ごとに異なるエンパナーダ文化
14の州、14の味
アルゼンチンのエンパナーダは、州ごとに驚くほど異なります。英語圏の旅行メディアMatadorNetworkは「アルゼンチン人にとってエンパナーダの州を当てるのは、日本人にとって方言で出身地を当てるのと同じこと」と表現しています。
サルタ州: じゃがいもの角切り、唐辛子、生の青ねぎが入り、揚げるのが伝統。トゥクマン州: 鶏肉を使い、揚げるスタイル。サイズが小さめ。メンドーサ州: オリーブが多く、甘口パプリカの風味が強い。オーブン焼き。コルドバ州: 砂糖を少量加えた甘じょっぱい生地が特徴。
エンパナーダとアルゼンチンの国民性
英語圏の文化人類学者フランシス・マリーニャスは「エンパナーダはアルゼンチンの社会的接着剤。サッカーの試合、家族の集まり、政治集会、どんな場にもエンパナーダがある」と述べています(BBC Travel, 2023)。日曜日に家族が集まってエンパナーダを大量に作る「エンパナーダ・パーティー」は、日本の餃子パーティーに近い文化です。
ブエノスアイレスの下町では「エンパナデリア(empanaderÍa)」と呼ばれるエンパナーダ専門店が軒を連ね、テイクアウトで1個100〜200円程度で買えます。昼食にエンパナーダ2〜3個とコーラという組み合わせは、アルゼンチン版のファストフードそのものです。
レコンキスタからパンパスへ — エンパナーダの旅路
エンパナーダの歴史をさらに遡ると、8世紀のイベリア半島に辿り着きます。ムーア人(北アフリカから侵入したイスラム系民族)がスペインに持ち込んだ「サンブーサク(sambusak)」と呼ばれるミートパイが、キリスト教勢力による「レコンキスタ(国土回復運動)」を通じてスペイン全土に広まりました。
13世紀のスペインの料理書にはすでに「エンパナーダ」の記載があり、パン生地で肉や魚を包んで焼く料理として定着していたことがわかります。16世紀のスペイン植民地化とともに南米に持ち込まれたエンパナーダは、現地の食材(じゃがいも、トウモロコシ、トウガラシ)と融合し、各地域で独自の進化を遂げました。
アルゼンチンだけでなく、チリ、コロンビア、ベネズエラ、エクアドルにもそれぞれのエンパナーダがあります。チリのエンパナーダはアルゼンチンより大きく(手のひら大)、玉ねぎの甘みを活かした「ピノ」と呼ばれるフィリングが特徴的です。コロンビアでは黄色いトウモロコシ粉で生地を作る「エンパナーダ・コロンビアーナ」が主流で、見た目も食感も全く異なります。ベネズエラでは「エンパナーダ・ベネゾラーナ」と呼ばれるトウモロコシ粉の揚げエンパナーダがあり、アレパ(ベネズエラの主食であるトウモロコシのパン)の親戚として位置づけられています。同じ「エンパナーダ」という名前でも、国によって全く異なる料理になっているのが興味深いところです。
アルゼンチン人の間では「エンパナーダのレプルゲ(縁飾り)を見れば出身地がわかる」と言われています。ブエノスアイレスは「13折り」、サルタは「三つ編み型」、トゥクマンは「8折り」が伝統的です。フィリングの種類(牛肉、鶏肉、チーズ)ごとに異なるレプルゲを使い分ける習慣もあり、大皿に並んだエンパナーダの中身を手に取る前に判別できるようにしています。これはヒンカリのヒダの数で蒸し上がりを判断するジョージアの習慣と通じるものがあります。

よくある質問
Q1. 生地がサクサクになりません。原因は?
最も多い原因は、バターが溶けてしまったことです。バターは必ず冷たいまま使い、生地をこね過ぎないでください。酢を小さじ1加えるとグルテンの発達が抑えられ、サクサク感が増します。もう一つの原因は焼き温度の低さ。200℃でしっかり焼くことで、バターが蒸発してサクサクの層を作ります。
Q2. フィリングの水分が多くて包みにくいです。
玉ねぎから出る水分が原因です。炒めた後にバットに移して冷ます際、ペーパータオルを敷くと余分な水分を吸ってくれます。また、冷蔵庫で30分冷やすとフィリングが引き締まり、包みやすくなります。パン粉を大さじ1混ぜて水分を吸わせるのも有効な方法です。
Q3. 子供向けのフィリングは?
ハム&チーズが子供に一番人気です。調味料をほとんど使わないので味がマイルドで、チーズのとろける食感が喜ばれます。コーンの缶詰を混ぜた「チョクロ(コーン&チーズ)」も甘みがあって子供ウケ抜群。キョフテのフィリングをエンパナーダに入れる変わり種も面白いです。
Q4. 焼いたエンパナーダの保存方法は?
冷蔵で3日、冷凍で1ヶ月保存可能です。再加熱はトースターまたは180℃のオーブンで5〜8分が最適です。電子レンジだと生地がしんなりしてしまいます。冷凍した場合は解凍せず、凍ったまま180℃で10〜12分焼いてください。
まとめ — 黄金色のパイに詰まった南米の魂
エンパナーダは、スペインからアルゼンチンへと渡り、それぞれの州が独自の味に育て上げた「包む文化」の結晶です。サクサクの自家製生地、スパイスの効いたフィリング、そして黄金色の焼き上がり。一度作ればその手軽さと美味しさに驚くはずです。
週末に家族で大量に仕込み、冷凍庫にストックしておけば、平日の夕食やお弁当に即座に対応できる万能フードです。セビーチェを前菜に、エンパナーダをメインに、フェイジョアーダを翌日の主菜にすれば、南米料理の三日間フルコースが完成します。南米料理まとめで各国の料理の全体像を把握しながら、少しずつレパートリーを広げていってください。
参考文献
- Iglesias, Daniel. The South American Table. Boston: Harvard Common Press, 2003.
- Botelli, Maru. "Empanadas Argentinas Perfectas." YouTube, 2024. https://www.youtube.com/marubotelli
- BBC Travel. "The empanada: Argentina's national food." 2023. https://www.bbc.com/travel/article/20230515-the-empanada-argentinas-national-food
- Lonely Planet. "Argentina's Regional Empanada Guide." 2025. https://www.lonelyplanet.com/argentina/articles/argentinas-regional-empanada-guide
レシピ・動画:
- Locos X El Asado. "Receta de Empanadas." 2024. https://www.locosxelasado.com/empanadas-argentinas
食文化研究:
- Albala, Ken. The World in a Skillet. Berkeley: University of California Press, 2015.









